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pgha1117

Author:pgha1117
しゅうちょうと申します。
もう引っ越しはしないと決めていましたが、またもや引っ越す破目になり、ブログを立ち上げる事にしました。
テクノロジー犯罪、組織的ストーカーの被害記録を綴ります。


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脳死移植

私は、脳死移植に反対です。
自分の家族を助けたいという気持ちは分かります。

以前、心臓移植をする為に、海外まで行って脳死体を待つという報道が度々ありました。
これを見ていて嫌な気持ちになりました。
自分の家族を助ける為に、他人が死ぬのを待つ…。

被害に気付かされてからは、テレビを見ていないので、現在は変わっているのかも知れませんが。
テレビの報道が、事実とは限らないという事も、知って欲しいと思います。

テレビはレシピエントを中心に話を展開します。
ドナーには、あまり触れません。

本の題名は忘れてしまったのですが、脳死になった子供さんの目に、涙が1粒残っていたという母親の話がありました。
脳死なので、体は暖かく人工呼吸器で息もしています。

脳死になると、コーディネーターが来るようです。
臓器を他の方にあげて、亡くなった方を生かすという様な話をするようです。

脳死になるのは、交通事故、アメリカならば銃、等と急な場合が多いと思います。
ただでさえ亡くなったと言われて気持ちが不安定な所へ、その様な話が来る訳です。
医師とコーディネーターに話をされて、断り難いという事も考えられないでしょうか。

承諾すると、家族は、すぐに引き離されてしまうようです。
臓器の新鮮さを保つ為、感染症を防ぐ為に…。

移植された方は、どうなのでしょうか。
医学が進んで、免疫抑制剤で臓器が定着し、普通の生活が出来るのでしょうか。
免疫を抑制するという事は、感染症に掛かりやすくなるという事ではないのでしょうか。

一生、免疫抑制剤を飲み続けなければならないと聞いた事があります。
ずっとベッドに居続けるよりは、良いのでしょうか。
移植を受けた方の報道も見た事がありません。

脳死の判定に関しても、これで死亡として良いのだろうかと思います。
和田移植の事件もあり、死亡していないのに、臓器を摘出される危険はないのでしょうか。

意識不明で、こちらの呼び掛けには応じない様に見えても、反応出来ない、動けないだけという事はないのでしょうか。

もう絶対に意識が戻らない、という事と、死亡したという事は違うと思います。

和田移植については、渡辺淳一の【白い宴】で知りました。
脳死の事は、立花隆の本を読みました。
とても、分かり易いと思います。

事件等で早世された方の葬儀で、○○さんの分まで生きる、という言葉を聞いて、ずっと昔から嫌な気がしていました。
元々、生きる事に執着心が無いからでしょうか…。
長生き願望も、昔から持っていません。

他人の分を生きるという発想がありません。

障害を持って生まれた方は大変だと思います。
でも、その障害の為に、障害者ではない人には見えないものが見えているという事も多いのではないでしょうか。

障害者には見えなくても、人間は一人一人が皆違い、喜んだり、苦しんだりしながら生きている物だと思います。
長く生きる事が目的では無く、自然に与えられた命を、どれだけ大切に生きたかという事で良いのではないでしょうか。

この様な考えで、脳死移植は反対です。
文字にしようと思うと大変難しく、誤解を招く事もあるかも知れません。

ドナー、レシピエント、両方の話を聞いて頂きたいと思います。
脳死された方の御家族が、亡くなったという事を受け入れる為の説明と、考える為の静かな時間が必要なのではないでしょうか。
レシピエントの方は、どの位の確率で、普通の生活が送れるようになったのでしょうか。

臓器が誰に提供されたかは分からないので、どのようになったのかも分からないのでしょう。
コーディネーターを介して、手紙のやり取りでも出来れば救われる様な気もします…。

生体移植は海外ではあまりされていない様です。
家族が生体移植で普通の生活に戻れるのなら、私もやるかも知れません。
拒絶反応が少ない可能性もある為と、予後が分かるからです。

脳死移植も薬に頼らなくても良くなり、オープンに出来る様になれば良いと思います。


ウィキペディアより 抜粋

脳死(のうし、英:brain death)とは、ヒトの脳幹を含めた脳すべての機能が不可逆的に回復不可能な段階まで低下して回復不能と認められた状態のことである。ただし国によって定義は異なり、大半の国々は大脳と脳幹の機能低下に注目した「全脳死」を脳死としているが、イギリスでは脳幹のみの機能低下を条件とする「脳幹死」を採用している。日本では、脳死を「個体死」とする旨を法律に明記していない。


和田心臓移植事件(わだしんぞういしょくじけん)とは日本初の心臓移植手術をめぐる事件。

概要

1968年8月8日に和田寿郎を主宰とする札幌医科大学胸部外科チームは、日本初、世界で30例目となる心臓移植手術を実施した。ドナーは21歳の溺水事故を起こした男子大学生。レシピエントは18歳の男子高校生。和田によれば、多弁障害を抱え人工弁置換術では根治できないとされる患者であった。

手術は約3時間半をかけて明け方、終了した。レシピエントは意識障害がなかなか回復しなかったが、やがて意識回復。8月29日には屋上で10分間の散歩をし、その回復振りをマスコミに披露した。その後、一般病棟に移ったが、9月に入ると徐々に食欲不振に陥る。検査の結果、輸血後の血清肝炎と診断された。術後においても発症が現れていたという、意識混濁の症状も進みはじめたレシピエントは、10月に入って一旦、小康状態を発表されるが、手術後83日目の10月29日に食後に痰を詰まらせ長時間にわたる蘇生術の甲斐もなく呼吸不全で死亡したと医師団により発表された。

心臓移植後の経過

レシピエントの死後、それまでくすぶっていた疑惑が一気に噴出した。それは胸部外科が発表したすべての事実を否定するほど多岐にわたるものであった。同大第二内科から人工弁置換術のため転科してきたことを隠蔽し、さらに、多弁障害ではなく、僧帽弁だけの障害で、二次的に三尖弁の障害はあるが、これらは第二内科が依頼した弁置換術で治癒の可能性があったため、このレシピエントがそもそも心臓移植適応ではなかった可能性も発覚した。転科前の第二内科による診断内容と、胸部外科による診断内容は、ほぼ同時期に診断がおこなわれたにもかかわらず相当の隔たりがあったことも疑惑に拍車をかけた。

ドナーが小樽市内の病院から札幌医科大学へ搬送された直後、麻酔科の助手から筋弛緩剤を借りて注射し、それに抗議した麻酔医を蘇生の現場から追い出した。さらに、この麻酔医は、移植後の拒絶反応をやわらげるため、ステロイドホルモン製剤の「ソル・コーテフ」(一般名コハク酸ヒドロコルチゾンナトリウム)を10筒も(通常は1、2筒)大量投与したことも目撃している。この一連の証言から、胸部外科医師団が溺水患者に対してかならずしも適切な処置をほどこしていたわけではないことがあきらかになった。

不可逆的な脳死を脳波平坦という事実で証明する必要があるため、移植のためのドナーには必須であると当時でも認識されていた脳波をそもそも取っていなかったり、ドナーの検視時に心臓提供者だという事実を警察に伝えていなかったりしたために、詳細な検査を監察医から受けることなく火葬に付され、死の真相解明は不可能となった。数時間後に和田みずから、警察に連絡を取り、事情を説明したが、時間が経過していたため病理解剖はできなかった。

一方、レシピエントの死後、彼の元の心臓が3ヶ月以上にもわたって行方不明になり、病理解剖学者の手元に渡ったときには、検索前にもかかわらず、何者かが心臓中央部から切断しており、さらには4つの弁もばらばらに摘出されて、心臓移植適応かどうかで問題になっていた大動脈弁が心臓の切り口に合わない(他人のものの可能性がある)など不可思議な事実が次々とあきらかになった。

1968年12月、和田心臓移植は大阪の漢方医らによってついに刑事告発される。1970年夏に捜査が終了し、告発された殺人罪、業務上過失致死罪、死体損壊罪のすべてで嫌疑不十分で不起訴となった。札幌地検はこの捜査のために、3人の日本を代表する医学者達に、各一人ずつ1つの項目について鑑定書作成を依頼したが、それらは終始曖昧で決断を下しかねているような論調で、すべての鑑定人に対する再聴取が必要なほどであった。

また、1973年3月23日、当時の心臓移植手術の妥当性に関して日本弁護士連合会の警告を受けている。

なお、和田寿郎本人はこの疑惑について、門脇という医師の行為について証言を残している。門脇医師がこの心臓手術に参加していたことは確かだが、彼はその後胃癌を発症し、これが原因で心臓手術の5ヶ月後に亡くなっていたため本人への確認は不可能であり、死人に口無しであった。

当時、札幌医科大学整形外科講師の地位にあった作家の渡辺淳一は、この心臓移植を題材に地の利をいかして関係者からくわしく話を聞き、『小説心臓移植(のちに「白い宴」と改題)』を発表した。綿密な調査で知られる吉村昭も心臓移植を追った小説『神々の沈黙』の中でこの手術に関して触れており、後に、その取材ノートともいえる『消えた鼓動』を発表した。

和田心臓移植からふたたび日本で心臓移植が開始されるのは31年後の1999年2月28日におこなわれた大阪大学チームによる心臓移植であった。和田の、免疫学を無視したと取られてもやむをえない、強引な心臓移植手術の強行が日本の心臓移植、ひいては臓器移植の遅滞を招いたとの批判もある。臓器移植という特殊な医療は、社会風土、倫理、人生観、宗教、博愛精神、などさまざまな要素から成り立っており、この心臓移植一件で、臓器移植の遅滞を招いたと結論付けるのは議論の余地があるが、少なからず影響を与えたと考えるのは無理からぬことでもある。


渡辺 淳一(わたなべ じゅんいち、1933年(昭和8年)10月24日 - 2014年(平成26年)4月30日)は、日本の作家。北海道空知郡上砂川町朝陽台出身。1958年札幌医科大学医学部卒業。医学博士。

来歴

1964年札幌医科大学助手、1966年同大医学部整形外科教室講師。医業と並行して、北海道の同人誌に執筆を続ける。同大学の和田寿郎教授による和田心臓移植事件を題材にした『小説・心臓移植』(1969年3月。後に『白い宴』と改題、角川文庫)を発表し、大学を去る。1970年、37歳の時に総理大臣寺内正毅をモデルとしたとされる『光と影』で第63回直木賞を受賞し、本格的に作家活動を開始した。直木賞、吉川英治文学賞、中央公論文芸賞、柴田錬三郎賞、島清恋愛文学賞選考委員。


立花 隆(たちばな たかし、本名:橘 隆志 1940年5月28日 - )は、日本のジャーナリスト・ノンフィクション作家・評論家。

『脳死』中央公論社 1986(のち文庫)
『脳死再論』中央公論社 1988(のち文庫)
『脳死臨調批判』中央公論社 1992(のち文庫)

抜粋終わり 下線は私


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