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pgha1117

Author:pgha1117
しゅうちょうと申します。
もう引っ越しはしないと決めていましたが、またもや引っ越す破目になり、ブログを立ち上げる事にしました。
テクノロジー犯罪、組織的ストーカーの被害記録を綴ります。


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過去の事 ④

父の被害と思われる事で思い出した事の追加です。
1968年に三億円事件が起きました。
小平市に近い府中で、現金輸送車から三億円を強奪したという事件です。

当時、父は革ジャン、革手袋、白いスカーフ、でオートバイで出勤していました。
事件の犯人が白バイに見せ掛けたバイクを使った為か、自分にも疑いが掛かっているのではないかと思った様です。
今、事件を見てみると全く違う事は明らかですが、当時は大騒ぎになった未解決事件でした。

公開されたモンタージュの写真が痩せ気味だった事位しか共通点はありません。
誰かに仄めかされでもしたのでしょうか、気にしていた様です。
口には出しませんでしたが、未解決のままだったので心の重荷になったのではないでしょうか。

顔面神経麻痺も被害と思われます。
父の買い物をして玄関へ入ると、出て来た父の顔の左半分が垂れ下がっていました。
朝起きるとそうなっていたそうで、瞼が閉じないので眼球が痛いと言っていました。

この時は顔面神経麻痺だと思いましたが、今私の右手の麻痺した指を見ると父と同じになっています。
顔面だけではなく、半身麻痺にされていた様です。
私に言えば病院へ行かなければならないので、見える顔の事しか言わなかったのでしょう。

きっと大変な生活をしていたのだろうと、今になって申し訳なく思っています。
被害者だと思われる気分の急変が酷く、急に怒り出したりするので喧嘩になります。
私も被害に気付かされていないので、何で急に怒るのだろうと腹が立ちました。

この半身麻痺は何でも自分でやる事で、段々良くなりました。
何にでも時間が掛かっていた様で、私が行くとこれから朝食と言い朝食、昼食、夕食と3食食べていました。
タモリと同じ一日一食で、体調に変化はなかった様です。


今日も0時近くにパソコンを切りました。
0時40分  お手洗いから出ようとすると ピーポー!
昨日と全く同じタイミングです。

この様に合わせる為に少しずつ眠らせて時間調整をしているのでしょうか。
後は同じプログラムで動く!
布団に入ると変な照射感と揺れでした。

起こされてラジオをつけると3時過ぎ、天気予報になるとラジオが聞こえなくなりました。
4時の時報で起きて雨戸を開けると、隣家の電気が点けてありました。
階下へ下りると急な尿意!

8時34分  食事の片付け、洗い物でシンクの前に座ると グ~ッ 押さえ付ける低周波の飛行機音! ピーポー!
今日も目立つ大きな音はありませんでしたが、ヒュルヒュル、グ~ッは一日中!
ピーポーも6時前からひっきりなしにピーポーピーポー!

ピーピー車がウロツキ、18時頃には音立て声立て!
キーンキーン、ワ~ン、クィーンクィーンと変な音もいつも通りです。
グ~ッという上空の音は、今23時21分にもしています。

今日も朝から頭を押され、顎が胸を圧迫しています。
お風呂、食事中に急に痰が絡んで呼吸がし辛くなります。
揺れの種類を変えるので、ふらつきが酷くなっています。



今日のニュース 河北新報 ONLINE NEWS より引用

<原発事故>オフサイトセンター無施錠で放置

東京電力福島第1原発事故の対策拠点でありながら、事故発生直後に閉鎖された福島県大熊町のオフサイトセンターは、無人のまま施錠されずに2カ月半も放置されていた。証言したのは当時、県議だった小沢隆さん(76)=会津坂下町=。「状況を確かめて冷静に行動できなかった今回の原発事故を象徴する。歴史的な教訓にしなければいけない」と戒める。

センター内
オフサイトセンターの内部。2カ月半たっても退去時のままだった=2011年5月29日(小沢さん提供)

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◎施設機能せず 行政の責任感問う

 小沢さんは同僚議員らと2011年5月29日、自主調査で福島第1、第2原発のオフサイトセンターである県原子力災害対策センターを訪れた。第1原発の20キロ圏内には通行許可証を取得して入った。一時帰宅は始まっておらず、第1原発から約4キロ離れた大熊町中心部のオフサイトセンター周辺に人影はなかった。
 玄関は施錠されていたが、通用口は開いていた。机に書き込みのある書類が重なり、飲みかけのミネラルウオーターや非常食があった。黒板には10分刻みで風向や放射線量が記されていた。「慌ただしく退去したさまが生々しく残っていた」と振り返る。
 同じ敷地には、モニタリングの拠点となる県原子力センター、被ばく医療を行う県環境医学研究所が立つが、ともに中に入れる状態だった。緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム(SPEEDI)の機材や内部被ばくを検査するホールボディーカウンターが残されていた。
 「信じられなかった。無人のまま2カ月半、無施錠に気付いていない」
 オフサイトセンターには大きな揺れがあった3月11日夜から国や県などの職員が詰め、現地対策本部を設置した。しかし、放射線量の上昇に加え、停電や通信機能の障害もあり、同15日までに全員が退避した。
 「原発事故のために設置した施設が機能しなかったのはなぜか」。小沢さんは県議会でたびたびただしたが、納得できる答えは得られなかった。「現地の状況が分からない。報道もない。自分で確かめるしかない」と自主調査を断行した。
 調査後は県に施錠の確認を何度も求めた。県は退避時に施錠したとの回答を繰り返した。6月11日に再び現地を訪れ、全て施錠されたことを確認した。
 現地の対策本部がなくなり、原発20キロ圏内の状況を把握できなくなった。「新聞やテレビも同じ。原発周辺から記者が消え、情報が途絶えた。不安や混乱を招いた一因ではないか」と報道機関にも苦言を呈する。
 原発事故前、県は原子力災害に備え施設や機材、マニュアルを整えたが十分活用できなかった。
 小沢さんは「最も頼りになる施設が機能せず、退避後2カ月半も無施錠のまま放置した。巨大噴火やテロ、将来どんな国難に遭うか分からない。行政は責任感、使命感を磨いてほしい」と願う。

[オフサイトセンター]
 茨城県東海村で1999年にあった臨界事故を受け、原発や使用済み核燃料再処理工場、研究炉などの事故に備え設置された緊急事態応急対策拠点施設。情報を迅速に集め、関係者が連携して対応に当たる。福島県は原発事故後、新しいオフサイトセンターを建設。第1原発対応は約24キロ北の南相馬市、第2原発対応は約8.5キロ南の楢葉町にそれぞれ設置した。

引用終わり


なんと無責任な事でしょう。
これで事故が起きてもまた知らん顔で、誰も責任を取らない。
日本はどうなって行くのでしょう。


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