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pgha1117

Author:pgha1117
しゅうちょうと申します。
もう引っ越しはしないと決めていましたが、またもや引っ越す破目になり、ブログを立ち上げる事にしました。
テクノロジー犯罪、組織的ストーカーの被害記録を綴ります。


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家宅侵入 №5

昨日は、被害者の方達と被害者の御宅へ御邪魔して、その後は美味しく楽しくおしゃべりをして来ました。

留守中のICレコーダは、全部は聞いていないのですが、いつもの通り、家の近くでの大声立て。
小学校のチャイムの音が、大きく、小さく、しょっちゅう入っていました。

家の中の音は明白で、私が台所を歩いている時のギッというような特徴のある音が入っていました。

この他にも、家の中の物が揺れて、カタカタと鳴っている音。
たぶん、アパートの階段を、わざとドタドタと下りて家の中の物を揺らしている音。

相当、侵入されていると思い、開けたら分かるようにしているのですが、お手洗いの水洗を流している音が入っているように思います。
水道代を上げる為でしょうか、何回も入っています。

後は、いつものラップ音、家の中のコソコソ音、ビンに何かを当てているような音がいつもと同じように入っていました。

その他の被害は、今後分かるかも知れません。


今日の記事 週刊朝日より抜粋

「プリンシプルの男」か「狂人」か 遺族が明かす餓死判事の死の真相

(更新 2015/10/24 07:00)

今から68年前の10月11日、妻・矩子と幼い子供を残して一人の若き判事が死んだ。東京地裁判事で食糧管理法違反など経済犯を担当していた山口良忠(享年33)だ。闇米を拒否した末の餓死で、それに米国のマスコミは「プリンシプルの男」と最大限の敬意を表した。あの矛盾と欺瞞に満ちた戦後の混乱の時代を彼はいかに生きたのか。ジャーナリスト・徳本栄一郎が取材した。

*  *  *
 白石町は佐賀県の有明海沿岸にあり、秋には見渡す限り稲穂の波が揺れる。

 1947年10月12日、その田んぼの間の道を葬列が進んでいた。位牌を抱いて憔悴した女性と幼い2人の男の子、その後ろに親族や近所の住人が続く。

 その翌月の11月6日、米国を代表する大手紙ワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズにある記事が載った。山口良忠という東京地方裁判所の判事が飢えと病気で死亡したとの内容で、“a man of high principles”(プリンシプルの男)と紹介していた。プリンシプルとは原理原則という意味で、命を賭けて信念を貫く高潔さを指す。

 戦争終結からわずか2年、まだ反日感情が根強い米国で一人の日本人に最高の敬意を表したのである。

 きっかけはその2日前、朝日新聞西部本社版に載った記事だった。

「食糧統制に死の抗議」「われ判事の職にあり」という見出しと、その横に男性の写真がある。白石町出身で東京地裁判事の山口良忠(享年33)は食糧管理法違反など経済犯を担当していた。だが人を裁く身で闇米は食べられないとし、配給食糧だけで生活した。そして栄養失調による肺浸潤で倒れ、故郷で療養中に亡くなったとの趣旨だった。

 記事は本人が病床で書いたとされる日記を引用していた。

「自分は平常ソクラテスが悪法だとは知りつゝもその法律のために潔く刑に服した精神に敬服している。今日法治国の国民には特にこの精神が必要だ」「自分等の心に一まつの曇がありどうして思い切つた正しい裁判が出来ようか」

1945年8月の敗戦で日本は連合国軍総司令部(GHQ)の占領下に置かれた。GHQは新憲法制定や教育改革など民主化を推し進めたが、当の日本人はそれどころではなかった。敗戦の年は冷夏と水害も重なり米が記録的な凶作となった。旧植民地からの食糧輸入も途絶え、数百万の人々が海外から引き揚げてきた。そのため翌年には全国で未曽有の食糧不足が発生する。戦時中から政府は食糧管理法で米などの配給を導入したが、敗戦直後は遅配や欠配が相次いだ。

では人々はどうやって生きていたか。正規の配給以外のルートで食べ物を買いつける、いわゆる闇市場である。大都市の住民はすし詰めの列車で地方の農家を回り、わずかばかりの着物などを米や野菜と交換した。タケノコの皮を一枚ずつ剥ぐような「タケノコ生活」で、むろん食管法違反だ。見つかった場合は逮捕され食糧も押収、こうして捕まった者を裁くのが良忠の仕事だった。

山口良忠は1913年、佐賀県白石町で生まれた。彼の生涯を追った伝記『われ判事の職にあり』(山形道文著)によると、京都大学法学部に進んだ良忠は、1938年に司法試験に合格、横浜や甲府の勤務を経て大戦中に東京地裁に配属された。そして戦後の1946年10月、経済事犯担当判事に任命された夜、妻の矩子にこう告げたという。

「人間として生きている以上、私は自分の望むように生きたい。私はよい仕事をしたい。判事として正しい裁判をしたいのだ。経済犯を裁くのに闇はできない」「これから私の食事は必ず配給米だけで賄ってくれ。倒れるかもしれない。死ぬかもしれない。しかし、良心をごまかしていくよりはよい」(山形の著書が引用した矩子の手記)

 この1年後に良忠は亡くなるのだが、そもそも配給だけで生きる事は可能だったか。何がそこまで彼を追い詰めたのか。

良忠が判事に任命された同月、司法省は検事総長名で「経済取締の徹底強化」を命じている。同省は翌年3月にも経済関係の判検事会議を開いて闇撲滅を決議、その直後、全国一斉に列車の持ち込み荷物取り締まりが始まった。

 この強硬さの裏には占領当局の思惑もあった。GHQは米国政府に、飢餓が発生すれば占領遂行に支障をきたすとして対日食糧輸出を要請していた。だが米国民の血税を使う以上、日本側も最大限の努力をせねばならない。闇撲滅はその一環でもあった。

 だが現実に逮捕されるのは大物ブローカーどころか名もない庶民の方が多かった。夫が戦死し子供を抱えた女性なども容赦なく摘発されたが、10日以上の遅配が続けば誰しも闇に頼らざるをえない。

 いわば食管法は守れるはずのない法律、矛盾の塊であった。その中で良忠はどうしていたか。

「全くの配給だけなので、生活ぶりは、まことに惨めでございました。主食は缶詰のときは缶詰だけ、豆のときは豆ばかり食べるほかなく、目方を計りまして四人で分け合っていただきました。子供は、可哀想なので、出来るだけ多くやり、後を二人で分けあいました。野菜も魚類も統制され、身動きできない有様でした」(山口矩子手記)

 そして1947年8月27日、良忠は東京地裁で倒れた。栄養失調による肺浸潤と診断され、郷里の佐賀で療養する事になった。

今から6年前に良忠の出身地・白石町を訪ねた時、私はある女性をインタビューした事がある。井崎萩子、亡き良忠の妹である。彼女は半世紀以上も昔の兄の思い出を語ってくれた。

「じつは兄が亡くなった時、地元でも『あいつは気が狂っただけたい』という声があったんです。餓死してまで闇米に手を出さんのは異常すぎるというんです。でも東京から戻った後の兄は出された物は何でもよく食べとりましたよ」

 良忠が闇の食糧を拒否したのはあくまで判事として働いた間だった。

 職務を離れればもう良心の呵責に悩まずにすむ。まるで肩の重荷が取れたように配給以外の食べ物も口にしていた。

 やがて10月に入って風が冷たくなる頃、良忠の容態は悪化した。言葉を発するのも辛く、東京から駆けつけた妻とも筆談でやり取りした。そして10月11日午後2時20分、まるで力尽きるように息を引き取ったのだった。

抜粋終わり


私は、この方の事は、どなたかから伺って知っていました。
今日、この記事を目にして、戦争など関係無い、昔の事と思っている方に読んで頂きたいと思って長く抜粋させて頂きました。

元の記事は、もっと長いですが、出来れば元の記事を読んで頂きたいと思います。

この方は、狂人でしょうか?
戦争で、人間の殆どが狂っていたのではないでしょうか。
だから、この方が狂人に見えたのではないでしょうか。

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