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pgha1117

Author:pgha1117
しゅうちょうと申します。
もう引っ越しはしないと決めていましたが、またもや引っ越す破目になり、ブログを立ち上げる事にしました。
テクノロジー犯罪、組織的ストーカーの被害記録を綴ります。


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ネットの振り込みが、今月は間に合いませんでした。
来月からは、たぶん大丈夫だと思います。
世の中はどんどん変わり、ついて行くのが大変です。

今日もタクシーで行きました。
タクシー会社に電話をすると、混んでいるので20分以上待たなければならないと言われました。
「やられた!」と思いました。

先月はすぐに車が来たので、今日は少し遅めにしようと思いました。
すると更に遅くなる設定になっていました。
頭の防御をして待つしかありません。

先月は車が着くと、携帯に連絡が入りました。
今日も電話が来るだろうと待っていると、インターホンが鳴りました。
車が来ていました。

長後街道へ入る信号待ちの所で ピーポー!
救急車は見えませんでした。
銀行、コンビニのATM、買い物をしました。

先月よりは上手に歩け、躓いたのは一度だけでした。
駅ビルで買い物をしてタクシー乗り場へ向かいました。
エスカレーターで階が変わる毎に空咳!

最後は子供のキャ~キャ~でした。
駅ビルを出ると神奈川県警が5.6人で待ち伏せていました。
近くを通ると「振り込め詐欺云々」チラシを出されました。

手が不自由なのでと断って通り過ぎました。
歩けば変電所の脇で、車だと駅で待ち伏せ!
他にも近隣の車の待ち伏せ! 付き纏いはそれ程大量ではありませんでした。


昨夜は調べ物も、通販サイトも動画も妨害されました。
1時近くに布団に入りました。
起こされてラジオをつけると2時過ぎでした。

小田和正の特集を聞いていると周辺はゴーゴーと凄い音がしていました。
ラジオに雑音が入ると、バイクが近くからうろつきました。
3時の時報、昭和59年の歌の特集でした。

両方の脇腹に殺人波照射で痛くなってきました。
氷川きよしの歌になったので起きました。
階下へ行くと3時57分でした。

6時19分  髪を梳かし、頭の防御を終ると ピーポー!
今日はピーポーは少なめでした。
外出中も1回、パソコンを始めてからも少なめです。

12時09分 洗い物を始めると ヘリ音 大!
今迄にヘリ音大!が7回です。
飛行機の大音量も、夜になっても流しています。

先日切られていたレコーダーが、また切られていました。
表示は「SDカードが抜かれた為 録音を中止しました」となっていました。
この表示は初めて見ましたが、家宅侵入?遠隔から?

冷蔵庫を開けると分かる様に貼った物が切られていました。
パソコンをつけると、充電中のランプが点きました。
家宅侵入でしょうか、全て遠隔からの操作でしょうか?

出かける日は朝から余計に酷く加害をします。
隣家の雨戸音も髪を梳かす前、6時前からでした。
ドアバンッ!はいつも通り 多用!

朝食時から飲み込み妨害、鼻に逆流しました。
頭の圧迫も酷く、四方八方から、横になってもやっています。
手足への加害も酷く、ビリビリと痺れて痛みを感じます。



今日のニュース WIRED より引用

2017.09.27 WED 10:00
「核ミサイル発射の誤報」から世界を救ったソ連将校、静かな死

冷戦の緊張が高まるなか、米国によるミサイル攻撃の警報を誤報と判断し、核戦争から世界を救ったとされるソ連将校スタニスラフ・ペトロフが、5月に死去していたことが判明した。
TEXT BY SEAN GALLAGHER
TRANSLATION BY MAYUMI HIRAI/GALILEO

ARS TECHNICA(US)

核
PHOTOGRAPH BY QUEERY-54/WIKIMEDIA COMMONS

冷戦の緊張がピークに達していたときに、旧ソ連システムの誤警報に基づく核ミサイル発射を防いだ男として知られているソ連防空軍の元中佐、スタニスラフ・ペトロフが、2017年5月に77歳で死去していたことが判明した。

1998年に初めてペトロフと面会し、翌年にペトロフのドイツ訪問を実現させたドイツの政治活動家、カール・シューマッヒャーが、ペトロフの息子から聞いた話として、5月に死去したことを伝えた。

ペトロフは1983年当時、ソ連が完成させたばかりの、核ミサイル発射警告衛星ネットワーク「オコ」(Oko、ロシア語で「目」の意味)を担当する当直将校だった。このシステムは、米国による核攻撃を瞬時に把握するために、発射されたミサイルが上昇する際の炎を捉えるとされていた。

1983年9月26日の深夜を少し過ぎたころ、米国から1発のミサイルが発射されたという警報が発令された。ペトロフは、2010年に行われた『RT News』のインタヴューで、当時のことを次のように話している。

「最初に警報メッセージを見たとき、わたしは椅子から飛び上がりました。部下たちは皆混乱していたので、わたしは、パニックになってはならない、と大声で叫びました。自分の決定がさまざまな結果を招くだろうということはわかっていました」そのうちに2回目の警報が鳴った。「サイレンが再び鳴り始めました。メインスクリーンには、血のように赤い大きな文字で、『開始せよ』と表示されました。さらに4発のミサイルが発射されたという内容でした」

この警報が事実であれば、ミサイルは30分後にソ連に到達するはずだった。当時のユーリ・アンドロポフ書記長は病床の身にあった。ペトロフが所定の手順に従った場合、アンドロポフ書記長に核ミサイル発射について通告する時間は15分を切っており、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の即時発射命令が出されていただろう。

「座り心地のよかったアームチェアが、真っ赤に焼けたフライパンのように感じられ、脚に力が入りませんでした。立ち上がることさえできないように感じました。この決定を下したとき、わたしはそれほど神経質になっていたのです」と、ペトロフは同じ『RT News』のインタヴューに答えている。

検出されたミサイルの発射数が大幅に少なかったことから、ペトロフは警報が何らかの誤りだと考えた。米国がソ連に対して先制攻撃を仕掛けることを決定した場合は、最初から大規模な攻撃になるだろうと告げられていたからだ。

さらに、爆撃機が飛び立つなど、攻撃が差し迫っていることを示すデータもなかった。ペトロフは警報を却下した。この警報はその後、米国の上空にあった雲に太陽光が反射して発生した誤報だったと結論付けられた。

核ミサイルについての判断を人間が行っていたため、アンドロポフ書記長に警告は送られず、報復攻撃は行われなかった。だからこそぼくらはここで生きている。ペトロフ元中佐、どうか安らかに。

※3週間前の同年9月1日には、ソ連軍が、領空侵犯した大韓航空機を撃墜し、乗員乗客269名全員が死亡する事件があった結果、東西間の緊張が高まっており、ペトロフが「米ミサイル発射」を報告すれば全面核戦争に発展する可能性があったとされる。その後、ペトロフは軍内で規定違反を問われて冷遇され、早期退役に追い込まれた。彼の行動は1998年まで秘密とされていた。いっぽう、米国が核弾頭搭載大陸間弾道ミサイルを発射するためのシークレットコードは、20年間「00000000」のままだったと、元発射担当者が明らかにしている[日本語版記事]。

引用終わり


一歩間違えば核戦争になっていたのでしょうか。
核戦争と言っても大砲と違って戦争という状態にはならないでしょう。
もう全人類を何回も殺す事の出来る核があるそうですから。


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